坂口恭平「けものになること」

ここ数年来、私にとって坂口恭平の作品及び彼の存在は、明け透けに言えばヴァーチャル愛人である。愛人は家庭の外にあり、愛を乞う。勝手に「来ちゃった」と言って困った顔に視線を合わせるか合わせないかの間も惜しく相手してもらう。
どんな時にその愛を乞うかというと、日常的な言葉を尽くす元気見当たらず、煮詰まって煮詰まっている時、例えば一触即発理不尽な夫婦喧嘩が起こりそうな夜に。無言でドアを閉め散歩に出る。その間中、ずーっと心の中で話しかける。
ファンであればもちろん周知のことだと思うが、坂口はケータイの電話番号を一般に公開しているので、本当に電話をかけてみようかと思うくらい前のめりにその頭の中のコミュニケーションを繰りかえす。バーチャル愛人は寝間着姿のままうなづいてだけいる。全然話してくれない。きっと坂口と共通する話題、哲学的な命題や新国家の憲法の事についてなど語りえることであれば真面目に打ち返しても来るだろう。あと、本当に絶望してるもう死にたい駄目だー、生きていても仕方ないー今から一本いくだのをわめいている場合には。
でも、プレ痴話喧嘩の壁打ち相手なんて、基本的にだれも返事する言葉を持たない。
そしてとうとう沈黙が訪れ、頭の中の坂口は小さな声で言う。
「それは、かわいくないから止めろよ、な?」
ああ、ううん。もう家に帰るわ。それじゃあ。
主婦が怒りの溜飲を下げ家路に就く儀式。坂口恭平に可愛いままでいろと言われたと仮定して。自分で言うのもなんだが豊潤でエロスに満ちたすばらしき世界じゃないか。

「けものになること」は坂口式生活スタイルの言葉で言えば、都市型狩猟採集生活を営む私の目の前に突然現れ、一気に仕留めた獲物だった。街にある果実として発売間もない新刊書が店蔵書として存在し、そこがとても居心地のいい飲食店だったので、3時間ほどの間に3回涙を流しながら、こんなに集中して本を読めたのは何年ぶりだろうと思いながら読み進めて、最後に水をクッと飲みこんでお金を払って二言三言店主と言葉を交わした。
「おやすみなさい」
入るときは恐る恐るだったはずの店の扉は、思ったより建てつけが軽やかで、前のめりに開け放つことができてうっかり転びそうにもなった。そして、水銀燈の眩しいオレンジ色の街灯を浴びながら家に帰って、インターネットで同著を自分用に購入してから、まるまって眠った。

。。。。。

「けものになること」の感想を書こうと思った。
凄いものを読んだ、傑作だ面白すぎると思ったはずなのに、特別言葉が出てこない。
傍にあって参照しようと捲るがヒリヒリする。どう読んでほしいとか、誰に勧めたいとか、これが好きな人と繋がりたいから感想をおもねて書くとか、そう言う欲求をあまり産まない。思想書であり、散文であり、憲法であり、歌。
けものになることの感想を綴れる主体があるとするならば、それはすなわち、けものになることというか、犬が腹をみせて背骨で地面を掻き、飼い主に整えられた毛並みをファッサファッサめちゃくちゃに散らして、ワシャワシャと可愛がられるのを激烈待っているような態度になる。それだけ主観で読むことを強いられる文体だし、歌だとか音楽だとか評論される要素は其処なのだろう。坂口恭平パスティーシュを書いてみたい衝動にも駆られるし、いろいろな方面に愛がほとばしる。とりあえず古巣のはてなダイアリーにこの散文を書き留めて、ファンダムに加わろうと思う。